青森県八戸市、中里デンタルクリニック.の院長紹介

院長紹介 中里好宏

幼稚園時代

私の父は2代目院長でしたので、子供の頃から歯科医師として毎日忙しく父の働く背中を見て育ちました。 平日の夜は歯科医師会の会議で不在。休日は疲れて寝ていることが多く、父と遊んだ思い出が多くありません。 母は専業主婦で、教育熱心かつ完璧主義者で、とても厳しかったです。 しかし、両親のおかげで現在の自分が作られたのは間違いありません

近所に友達もおらず、5歳まで幼稚園に行かなかったため、とても人見知りでした。(今では信じられませんが!) 5歳から知育に良いという幼稚園を母親が探し出してきて、全くの学区外の幼稚園に行きました。

また、この頃から、本家の長男で、代々続く歯科医院に生まれたこともあって、父親のように歯科医になることを母親に刷り込まれていました。 このころから将来は歯科医になることしか考えておりませんでした
歯医者が自宅とつながっていたので、父の働く姿を見るのは日常のことでしたので、将来をイメージはしやすかったです。

5月生まれだったこともあり、比較的体が大きかったので、いつも運動会ではトップでした。 また、リレーの選手も常連で、やればなんでも叶うと思っていました。

小学校時代

吹上小学校に入学すると、それまで学区外の幼稚園だったために、入学当初は友達がおらず疎外感がありました。 この頃には、体格差もなくなり、努力している人には勝てず、だんだんと運動会ではリレーなどの選手に選ばれなくなりました。

3年生の時に自分の人生に大きな影響を及ぼす教員と出会いました。沢英悦先生です。沢先生は私がやんちゃだったこともあり、秘書のようにいつも呼ばれ、躾、マナーなど愛を持ったげんこつをもらいながら育ててもらいました。

学校以外でも水泳、書道、英会話、家庭教師、そろばんなどたくさん習い事をやりました。そのため、友達と遊ぶ時間が限られていたためか、4~5年生頃にはいじめにあうようになりました。

中学校時代

小学校では、勉強しなくても良い成績でしたが、中学に入ると一変します。ずっと中の下の順位でした。
精神的に不安定で、続けていた書道、水泳、英会話の習い事はすべてやめてしまいました。

部活動に強制的に入部する規則でしたので、水泳部に入部しようと考えていたのですが、同級生の心無い言葉に傷つき、やったこともないサッカー部に入部。当然、うまくもなく、さらにいじめに会い、1年足らずで辞めてしまいました。その後は陸上部に入部したものの、ほぼ帰宅部という状態でした。

また、進学相談時、担任、校長にも止められましたが、自分と親のプライドでトップクラスの公立を受験。当然、人生最初の難関は突破できませんでした。

高等学校時代

滑り止めの私立高校に入った私は、特別進学クラスに入ることができました。
一応、国公立大学、医療系大学を目指すクラスでした。「自分はやればできる」という言葉にしがみついて、やらずにくさってばかりいました。運動もしないし勉強もしていませんでした。それでも、自分は歯科医師にならなければいけないという思いだけは持っていました。

模試の結果は、私立の歯学部でずっとD~E判定でした。人生の第2の難関も突破できませんでした。浪人という道を選択せざるを得なくなりました。

大学浪人時代

仙台や埼玉で3年間浪人しました。年々自分が精神的に病んでいくのを経験しました。
今思うと親の心労はそれをはるかに超えるものだったと思います。父親は会うごとに「歯学部ならどこでもいいから早く入れ」しか言いませんでした。父親は本当に器の大きな人物だったと思います。

3浪目は本当にこれ以上勉強できないと思うくらいやった結果、岩手医科大学に合格。東京に行きたかった私としては、都会の生活の希望は叶わなかったけれど、自分の結果を受け止めざるをえませんでした。今は、自分の人生にとってこの3年間の生活がとても糧になっています。仙台や川越に住んだこと、他地域、他学部の友人ができ世界が広がった時期でした。
また、この浪人という経験をすることにより、同じ境遇の人を励ますことができるようになりました。

大学時代~歯科医師国家試験浪人時代

大学では、まずこれまで中途半端にしていた水泳を再開し、大好きだったアイスホッケーを始めました。最終学年までやめない決意で入部し、やり遂げました。2つの部活で精神的、肉体的にかなり鍛えられたため、これ以上大変なことはないだろうという自負がありました。

そうしているうちに、5年生の時、父親が倒れたという衝撃の連絡がきます。 父親は、歯科医師として現役のまま息を引き取りました。

患者様を、歯科医師の姉が東京から戻って引き継いでくれました。なんとしても早く歯科医師にならなければ、という思いばかりが先行しておりました。 しかしながら、それでも、人生第3の歯科医師国家試験の難関も突破できませんでした。

大学を卒業し、東京の歯科医師予備校で、1年間猛勉強し翌年には合格。
ここでようやく幼稚園からの夢を果たし、難関を突破できた瞬間でした。

大学院、医局時代

生前、父親には「大学院で博士号をとった方がよい」と言われていたため、歯学部卒業後は大学院に入学しました。治療法の中で、将来は咬む機能や見た目を美しく治療することのエキスパートのなりたいと思い、大学病院の第二補綴科という入れ歯や被せ物を専門に学ぶ科に入局。4年間の大学院生活と歯科医師の人生の両立が始まりました。

入局当時、先輩方に笑われましたが、「博士号だけでなく補綴専門医も取得する」という壮大な目標を立てました。

最初の2年間は帰宅が夜中の3時くらいで、1日20時間労働しました。朝から患者様を治療し、夕方から研究し、夜中は技工をして被せ物を作っていました。いくら働いても大学院生のため無給でした。 しかし、この時、ただお金のために働くのではなく、患者様のため、自分の成長のため、未来の医院の発展のために働くということが養われたのかもしれません。

4年で博士号をとり関連病院で1年間歯科部長を務めていた頃、教授に「助教」のポストの話を頂き、さらに2年間、教育、研究、臨床を大学病院でやり遂げました。そして6年目に補綴専門医も取得します。
補綴を突き詰めることができました。が、同時に補綴の限界も知ることができました。

結果、7年間大学病院の医局にはお世話になりました。自分の人格と仕事の礎はここにあります。

継承開業

補綴を突きつめたことで、「予防の大切さ」に気づきました。
歯の病気は感染症です。 歯周病、虫歯を治療し、予防していこうと思い、3代目の院長として帰郷することを決心し今に至ります。